暴力の彼方へ

虐げられる者の希望へ向けて思考しつづけるノート

暴力の現前とその痕跡――研究の方法的態度

どのような研究も、

その根本にある動機に方向づけられながら、

その方法的態度を定めてゆきます。

 

しかし哲学による研究に関しては、

この方法的態度にはじまり、

これに終わるといっても過言ではありません。

 

つまり、たえず吟味検討しながら、

場合によっては解体し、再構成する。

 

むしろ、方法的態度の固定や確立というものは、

警戒しなければなりません。

 

たえず前提を疑いながら、

問いを深めてゆくこと。

 

したがってここでは、

基本的な考え方を、用語の語義を整理しつつ、

触れておく程度にとどめたいと思います。

 

・・・

 

まず出発点となるのは、

まさに暴力に供されている瞬間です。

 

苦しみや辱しめの真っ只中。

 

この状況においては、

わたしはなにも身を守るものをもたず、

ただ暴力に晒されています。

 

そこでは、時間や空間、ことばといった、

概念を操作する余裕がありません。

 

つまり、思考の一切が消失します。

 

わたしは、身を晒しつつ、暴力に晒されている。

 

この状況を「現前」と呼ぶことにしたいと思います。

 

現前とは英語で「presence」、

つまり「目のまえにあること」「居合わせていること」を意味します。

 

わたしは、暴力を振るうものの目の前に居合わせている。

あるいは、苦しみ、辱しめに居合わせている。

 

この現前において、思考が一切消失するならば、

ここでは哲学的言説の一切も停止します。

 

前日まで保持してきた心の支えも、

暴力の現前にあって、思い出す余裕がありません。

 

・・・

 

晒しつつ晒されることに、

ふつう、わたしたちは耐えることができません。

 

しかし虐げられる者にも、

暴力と暴力のあいだに、つかの間の猶予が生まれます。

 

この猶予において、

わたしは時間をもち、空間をもち、ことばをもちます。

つまり、思考が生まれます。

 

このことを言いかえれば、

「時間・空間は現前との間隔である」

となります。

 

このことは暴力の現前に限らずとも、

あらゆる現前において言えます。

 

たとえば、道で転んだとします。

 

骨を折ってしまったとすれば、

それは想像を絶する痛みに晒される経験でもあります。

このとき、なにも考える余裕もなく、顔をしかめるでしょう。

 

ここではこのとき、

「わたしにとって、時間・空間は消失している」と解します。

 

しかし、やがて痛みが引いていって、

すこし余裕が出てくると、

あなたは周りを見渡し、状況を把握しようとするでしょう。

このとき、空間がたち現れてきます。

つまり、現前から間隔がとれています。

 

また、次にどうしようかと考えることもあるでしょう。

周りに、起こしてくれる人がいないか、など。

このときあなたは、時間のなかで、ことばを使って考えています。

つまり、現前との間隔がとれています。

 

このようにして、

現前一般に関し、それとの間隔を時間・空間と呼ぶことにしましょう。

 

・・・

 

さて、わたしには、現前の記憶があります。

ひどいことをされた経験があります。

余裕が出てくれば、わたしはそれを考えることができます。

しかも、苦しみに晒されているときは、なにも考えることができなかったのに、

わたしはその経験をことばにすることができる。

これはなぜなのか。

 

ここでもうひとつ、用語を追加しなければなりません。

それは「再現前化」ということばです。

文字から想像できるように、語義は「現前を復元する」ということです。

これは英語にすると「reprensetation」になります。

これは哲学では一般に「表象」と訳されます。

ここでも表象として問題ないのですが、

現前との関係を示すために「再現前化」と捉えます。

 

つまり、わたしたちは、現前に晒されてから、

余裕をもちはじめると、時間・空間のなかで現前を再現前化し、

思考を組み立てられるようになります。

 

ここまでの話をまとめると、以下の図に表せます。

現前 → ( 時間・空間 ) → 再現前化

このようにして、わたしたちは思考をするとします。

 

しかし、現前のすべてを再現前化できるとは限りません。

ときにそれをあふれ出し、現前が私を襲ってくることもあります。

このことを「痕跡(trace)」と呼ぶことにしましょう。

 

たとえば、殴られたとき、わたしの体には傷が残ります。

この傷は、いくら自分がその時の経験を克服しようと、

一生懸命考えても、体に残ったままで、

それを見るたびに、わたしはそのときの痛みを思い出します。

この傷こそが、再現前化しきれなかったもの、すなわち痕跡です。

 

したがって、先の図にこれを加えると、以下のようになります。

現前 → ( 時間・空間 ) → 再現前化 ( → 痕跡 )

 

以上が暴力研究を進めるための、基礎的な事項になります。

以降、このことばを用いつつ、

問いを深めてゆきたいと思います。

 

暴力論ではなく問いつづけること――研究の方針と動機

はじめまして。

よしひろと申します。哲学系の学生をやっています。

よろしくお願いします。

 

このブログでは、暴力研究の成果報告をしたいと思います。

 

暴力といえば、

いじめや虐待、DVなどが思い浮かべられますが、

こういった、対等でない間柄で起こる暴力を、

ここでは研究したいと思います。

 

日ごろ、いじめや虐待のニュースを見て、

いつも胸が痛みます。

 

かくいう執筆者は、

いじめや虐待を直接的に経験してきたわけではありませんが、

それに怯え、逃げるのに必死な半生を送ってきました。

 

虐げられる子は、

なすすべもなく、絶望のままに、

しばしば死んでゆきます。

 

ひとつの命が、

希望をもつことすらなく消えてゆくこと。

苦しみのただなかで死んでゆくこと。

 

ニュースで報道されるのはごく一部で、

事実として、今もそれに苦しむ人がいること。

 

現状では、外部からの介入がなければ、

そういった人たちが解放されるのは難しいです。

 

もしも何も外からの救いがなかったら、

その人たちは、いたずらに暴力を振るわれて、

傷を負うばかりです。

 

そのように思うと、「なぜ」と問わずにはいられません。

なぜ、苦しまなければならないのか。

なぜ、暴力はあるのか。

なぜ、希望をもつことすらままならないのか。

なぜ、……。

 

この暴力への問いは、たんに答えを求めるばかりではなく、

それ自体として、憤りと絶望を含んでいます。

 

ここで研究したいのは、

暴力のメカニズムでもなければ、原因でもありません。

つまり、具体的な対応策ではありません。

 

もちろんそれらはとられるべきですが、

執筆者に今できるのは考えることしかありません。

 

それらの手前にとどまり、

まずは徹底して、暴力という現象の理解を深めること。

あまりに傷が近すぎる人の代わりに、あるいは共に、

希望へ向けて思考しつづけること。

 

つまり、ここで研究したいのは、暴力そのものの内実です。

もっと具体的にいえば、

虐げられる者にとって暴力はどのように現象するか、

この問いのもとで研究を進めたいと思います。

 

したがって、動機としては、

絶望のなかで暴力に晒される人に、ほんとうに希望はないのか、

というものになります。

しかし、ここでの研究は、その手前にも、とどまります。

しつこいかもしれませんが、

まずは、徹底して暴力の現象に対する理解を深めなければなりません。

 

つまり、暴力論ではなく、問いつづけることになります。

 

このことは実は、ひとつの達成ではないか。

 

すなわち、虐げられる者にとって恐ろしいのは、

考える力を奪われることであり、

それが絶望につながるのであるとすれば、

その傍らで問いつづけることは、

そのまま何か希望につながるのではないか。

 

それ自体、思考することの困難な現象を前に、

思考の歩みを止めないこと。

虐げられる者の声にならない叫びに耳を傾けること。

 

もしかしたら、

ここでなされるいくつかの研究の成果は、

現に苦しんでいる人にとっては、

「何も知らないくせに」と、

余計に傷つけることになるかもしれません。

 

そのことを覚悟の上で、

研究を進めたいと思います。

 

いかなる哲学的言説も暴力を免れないとしたら、

最悪の暴力に立ち向かうために、

最小の暴力を選択すること。

 

執筆者は、最小の暴力を選び、

それが最小のままにとどまるように、努めたいと思います。